りせっとさん
「何故あなたは都合よく過去を忘れるのか」「そこにリセットボタンがあるからさ」-ジョージ・マロリー(仮)-
これはどんな映画ですか
一作目は「尖ったもののそばで戦ってはいけない」
二作目は「クローゼットの中に隠れてはいけない」
三作目は「監督が変わればこうも違うのか」


しかしタイトルが同じなのは邦題だけ


(厳密には本当に三作目として企画されていたといううわさもある。でも、別物と見たほうがどう考えても面白い
普通、続編映画(ぱちもんの邦題オンリー続編を含む)というやつは
1作目は傑作
二作目は模倣
三作目は似ても似つかないごみ
と相場は決まっているのですが、その法則を破ったのが
はい、またこの時間がやってきましたね、若年層にはもうさよならおじさんはわかりませんね
イタリアン屑ホラー「デモンズ」
さすが我らがヘタリア、常に予想の斜め上を行く。

1980年代は、本当に狂った時代でした。
ゴールデンタイムに人食い映画やモンド映画のCMがばんばん流れ
洋画劇場系は来る日も来る日もカニバルばかり
この時代を経験したわれわれは、TVという奴は金になればモラルだの公共性などというハードルは軽やかに飛び越えてしまうことを肌身で知っている
(今の人は韓流で思い知ってるのかもしれませんが)
そんな中
ダリオ・アルジェント
と来れば、見に行きますよ。義務ですよ。
アルジェントがどんな人かはさっぱり知らないが、自分の作品の冒頭にでかでかと名前を掲げる押し出しの強さで、みんな名前だけはよく知っている
ジョン・カーペンターズくらいよく知っている
そのアルジェントが、アメリカ人のあるおっさんに「金は自分が出すから」と話を持ちかけ、とある低予算映画の続編的なものを製作、そしてこれが世界的なヒット
いうまでもなく、インディペンデント系で破格のヒットを飛ばしたことで、その名を知られる「ゾンビ」である。
なにしろ先輩格のルチオ・フルチにパクられ、それがまたヒットしたものだから「稼ぐなら今しかない」と、アルジェントは確信を持つ。この人のプロデュース眼は、ある程度信用していい。
これはいける(今作らないとフルチ爺にまたやられる)、と踏んだアルジェントは(そして後年やっぱり「サンゲリア2」で見事にやられた)、即座に続編を検討、監督のジョージ・A・ロメロも当然乗り気だった。
ところがヨーロッパ通貨に対して米ドルが高騰、とんだところから企画は振り出しに戻り、アルジェントは撤退、ロメロは自力で資金調達に乗り出し、大幅にスケールを縮小して公開されたのが「死霊のえじき」
作品としては個人的に前二作に劣らぬ傑作だと思うのだけれども、おもえばロメロにとって、ここがケチのつき初めだった。
が、本稿には無関係なので割愛する。

キチガイの割りに良識人だったアルジェントは、ゾンビネタはロメロのもの、と割り切り、再び魔女がなんちゃらいう、「俺の世界」に舞い戻るが、しかしあの成功の快楽が忘れられない
なんとかならないものか
彼は考えた
ようは、理屈はよくわからないが感染すればいいんだ
モンスターは不死身に近いくらいがイイ
そしてとりあえずどこかに閉じ込められる
よし、モチーフはクトゥルフにしよう
俺の好きなデカダンぽいものとかゴシック趣味も入れよう
そうだ

化け物は悪魔でいんじゃね?

そんなかんじで真っ向から2匹目のどじょうを狙いに行ったのが、この「デモンズ」である。
(たぶん)

アイデアは悪くない。
とある映画館で上映されるホラー映画と同じ現象が、観客に起きる。
マスクを被って顔に傷がつくと、同じことが劇場の客にも起こる。
なんで映画館でマスクを被るのかとか、考えてはいけない
現実と虚構がシンクロしていくというアイデアはすばらしい。アルジェントが監督していれば、かなりの佳作になったろう。
しかし、この作品の監督は、巨匠マリオ・バーヴァの不肖の息子、ランベルトだった。
この息子、父親の精液から一滴もいいものを受け継いでいない
ゾンビ(本当は悪魔)は吼えるか引っかくだけ
そして無駄に汚い。緑色のゲロは吐くし、汚い色の血糊ベロベロ、黄色い膿まで出る。これが道路なら信号になれるが、劇場では使い道もない。
ヒロインはギャーギャー騒ぐだけで、被害者たちはみんな脳みそをどこかに置き忘れてしまったような行動をとる
よく説明不足といわれるが、アルジェントが監督なら、その部分を雰囲気や殺人電波で「不条理」として強引にまとめてしまったかもしれないが、このボンクラのやることはコピーワークなので、どの場面も模倣にしかなっていない。
突然首吊り男が降ってくるのは「オーメン」だの、プロデューサーのアレのぱくりだし、作品内にいい具合に使われていればまだしも、なんの効果も挙げていない
パクるならせめてステンドグラスを突き破ってこいよ。
「肉を食わない」ってアイデアは、同年公開される「バタリアン」とバッティングし(ただしあちらは脳を食う)、デモンズ化は「がんばって狼男してるね」という程度のできばえ
監督が一生懸命知恵を絞ったらしい、突然ヘリコプターが墜落してくるというシークエンスは、いろんな意味で観客の度肝を抜いてくれたが、いい方向でのそれではない
前後の前振りがないので、本当に唐突なのだ。しかも、回転翼で切り刻むというのは「ゾンビ」でやっている。ボンクラの頭の中にはあのシーンがあり、シーンを再現するためにヘリを墜落させたというのが真相だろう。
そして、そのシーンが全然見せ場になっていないという見事な落ちもついている。

ところが、こんなボンクラ映画にもいいシーンがあるのですよ。
室内に逃げ込んだ犠牲者をあおりでとらえ、その不安定な構図で、心理的な効果を狙ったり、その犠牲者がしゃがむと、背後に立っていたデモンズがあらわれるといった、カメラワークの妙
(ようするに、カメラワークで後ろの人を隠しておいて、しゃがんだらフレームインするようにした、トリックとしてはただそれだけだが、アングルがうまいので編集なしのこの場面は結構ぎょっとさせられる)
デモンズに追われ、劇場のカーテンに突っ込み、真っ赤なビロードのそれを泳ぐように押し分けるけれども、いけどもいけどもカーテンばかりで、方向感覚がおかしくなる幻想的なシーン
なんだ、ボンクラもやればできるんじゃん
と思ったが、よく考えるとこれ、全部撮影出身の父親が得意とした演出ばかりじゃねえか
撮影の前日に、ネタ探しのため参考のため親父の映画を見ていたと思われる。

そして「意外性」と「拍子抜け」とを勘違いした脱力満点のオチで、この映画は終わる。

しかし、わりとうけたんだなあこれが。
そういう時代だったのもあるけれど、頭悪そうな女が悲鳴上げているだけの、ティーン映画としてみるなら、格別ひどいわけでもない、ということなのかもしれない。
(「バタリアン4」「5」も、そういう見方をすべきなんだろう)

ついでにいうと、サムライブームもあったんで、なんとなく日本刀も振り回したりする。
なんで盲が映画を見にくるんだよ、というようなところも、アルジェントなら意味ありげに(しかしたいした意味なく)なんとなく眼の見えない人を殺してみたかったから、みたいないい加減な理由で面白くしたような気がする。「らしさ」は随所に漂っているものの、ランベルトがそのアイデアをすべて台無しにしている
アルジェントは、畸形とか身障者に、神話的な意味づけとかを持たせたがるので、差別的な意味ではないよ、たぶん。

続く二作目は、舞台が劇場からマンションへと変わり、媒体はTVへとかわる。
えっTV? 私が「リング」の話を聞いたときに感じた嫌な予感の原始体験である。
(幸い後者の予感は外れた)
今回は、TVでおきることが現実に起きる。まったく好感の持てない女がラスボスのデモンズとなることで、最初から感情移入を拒否されてしまう。逆だろ逆。こういうのは「かわいそうな女」だからこそ、怖いんじゃないのか?
しかも、デモンズ化のシーンでは、TV画面からなんかでてくる
ああ。
やっぱり「ビデオドローム」なのか。
たいていのホラーファンは、ここでかっくんとくる。
(一応「夢だったのか」みたいなオチで振り返るとそこに、という、オーソドックスな演出くらいは覚えたらしい)
ただ、1作目よりもひどいと巷で言われているけれども、私はこちらのほうがよい出来だと思う。
マシって程度ではありますが。

1作目は、大味に「人の群れ」でくくってしまったことで、個々のドラマ性が弱く、とにかく感情移入ができない
そのため、見せ場が緩慢で(というより、二階席に閉じこもってブルブルふるえてるだけのことをどう盛り上げるのか、私には思いつかないが)シーンにメリハリがない
ボンクラではなく、きっとアルジェントが反省したのだろう、「ならマンションにすれば、自然に個々のドラマが作れるんじゃね?(撮影もパートで撮れるから安上がりだし)」ということになった。
いいアイデアである。低予算映画はこうでなくてはならない。
かくて、好感の持てないヒス女、オタっぽいめがねの男、お留守番中のガキ、犬を飼っている女、妊婦、ボディビルダー等等、とカードはそろった。
誰がどうなるのかはおおよそ察しがつこうというものだが、悪くはない。
正直、デモンズに追いまくられるマッチョ男優パンツというのはどんな罰ゲームかと思ったが、後半、ハイレグねーちゃんの股間のドアップとかでちゃんとバランスをとっていた。ちゃんと娯楽作品の作り方わかってきてるじゃないか。金玉握りつぶすのはいらんことだとおもうが。
観客が見たいのはおねーちゃんのほうだろう。ブルーノ・マッティならちゃんと乳をだすぞ。
(作品はもっとくだらないが)
ただ、このボンクラはしゃがみこんでおびえている=怖いという図式から離れられない
デモンズがやってくると、みんな逃げるのをやめてしまう。それは何かのギャグなのか?
1作目は劇場が舞台だったので、二階席に逃げ込み、通路の出口に客席を使ってバリケードを作った。
二作目は地下駐車場に逃げ込み、車を横付けにしてドアを塞ぎ、その上に車のシートでバリケードを作った

いや、そのバリケードはいらんだろ

というか、椅子から離れろギャグでやっているのか?
(ひどいのは、シーンを追うごとにこの駐車場の面積が広がること。最初は平凡な、20台スペース程度の駐車場なので、二つくらいある入り口を塞げばノープロブレムだったが、最後はどこに入り口があったのか、画面を埋め尽くすようなデモンズの群れが駐車場に現れる。どんだけ広いんだよ。フルチ爺さんに影響を受けて、地獄の門とかを開けてしまったのかもしれないが、説明がないのでなにがなんだかわからないことになっている)
わりとそんなかんじの見せ場は随所にある
ガキがすのこ様のカバーを跳ね上げ、通風孔に逃げ込んでデモンズに見つかる
妊婦がクローゼットに逃げ込み、すのこ状のドアを破壊されてデモンズに見つかる
なぜ同じシーンを繰り返したし。そういうのは大事なことだけにしなさい。それとも、これも「ハロウィン」のパロディーだってわかってほしかったの?

彼の仕事は、いつもこんなかんじである。

ただ、こういう群像劇スタイルの作品は、監督の力量がないと破綻するということを、アルジェントは失念していたらしい。
そのせいで、物語とはまったく無関係にぶらぶらしている人や、物語の中核にいたのにそこから離れ、無関係にぶらぶらして終わる人や、1作目と同様、車を飛ばしてやってくる馬鹿がでてくるのだけれども、結局物語とは何の関係もなく事故を起こしたりとか

ここまで破綻していたらすげえ

という出来で
(ひょっとしてミスリードのつもりだったの? なんのために?
オチのぐだぐだな具合もあって、結局すべてを台無しにしてしまっている。
すげえ。褒めるところがひとつもない
(理化学系の学生らしいからといって、ビンにどくろマークの入った毒薬は部屋にないだろ。というようなことを考えると、壮大なギャグなのかもしれない。たぶん違うが)

結局、二作目のあまりのひどいできにアルジェントが切れてしまい、いくら偉大な先輩の息子とはいえ、これ以上つきあいきれねえ、とその関係を絶ってしまう。
もっとも、これは事実ではなく、ほかのトラブルに腹を立てた、ということらしいのだが、以降ランベルトと仕事をしていないのは事実である。

続く「デモンズ3」は、じつのところ、「デモンズ」とは関係がない。
ただ、企画段階までは「デモンズ3」だったといううわさもあり、ここまでは辛うじて続編といってもいいのかもしれない。
以降「4」やら「5」のつく作品は、監督がランベルトのホラーってだけだったり、「3」の監督、ミケーレ・ソアビィが出演してる、てだけのもんである。

さて、「3」だ。
普通、三作目というのは、ターニングポイントとしていい作品か、止めを刺してしまうかの二択になっている。
この作品は前者だ。
ソアビィって人は本当にうまいなあ。
この人は、作品にいつもゴシックとファンタジーが力強く底流している。そのせいで、どんなにくだらないことをやっても、ある種の格調の高さがある。
そしてすべての監督作品に共通しているのが「涜神」という要素である。
チュートン騎士団による魔女狩りから物語を説き起こすあたりから、既に雰囲気満点だ。これは前二作でも感じたことだが、イタリアってのはとにかく、雰囲気のある遺構、建築物に事欠かない。さすが歴史と芸術と退廃の国だけのことはある。そのロケーションとあいまって、他国では出せない、独特のムードが最後まで続く。
逆に言うと、どんなにくだらないものを撮ってもそれなりの効果はあげてしまうということでもある。
ソアビィはもともと、役者として経歴をはじめたらしく、日本で公開された作品で最も記憶が古いのは、フルチの「地獄の門」あたりになる。マカロニホラーの巨匠といわれる人の作品にぼつぼつ出ているうちに、その特異な才能を見出されたのだろう。ボンクラ息子とは好対照である。
最近は「ブレイブ・ソルジャーズ TNT自爆テロの恐怖」なんて実録物を撮っているそうだが、またホラーを撮ってほしいもんだ。

内容は魔女狩りから現代に飛び、ある教会の謎に迫るという、アルジェントそのままなかんじのシナリオなのだけれども、殺人にあまり魅力を感じていないとおもわれるソアビィのほうが、ホラーとしては師匠よりもよっぽどいいものになっている。
「デモンズ'95」のときも書いたような気がするけれども
(これもデモンズとなっているが、中身はまったく関係ない)
既存の権威や宗教を徹底的におちょくり、愚弄していきつつも、そこに心地のよい笑いを載せたり、うまくホラーとして落としたりと、作品にいやみがない。
それはギャグなのか? というシチュエーションですら、独特の語り口で引き込んでしまうあたりに、この人の非凡さがある。なんか、あまり日本では評価されてないぽいけど。でも、好きな人はイタリアの監督として、名を上げる一人ではある。

作品としては、前二作と比較にならんほどの完成度を誇っているのだけれども
ソアビィの作品というのは、ロジカルではなく、ファンタジーと不条理が支配し、そして詩情あふれるオチがつくため、とても続編が作りにくい
そのために、商売になりにくいという、イタリアンホラー界では致命的な欠点を持っている。
量産して何ぼだから、あの国は。
この人が日本の監督なら、絶大な支持を集めていたろうというのは、かならずしも空想とばかりはいえないような気がする。
ネタがホラーだからアレだけど。

久しぶりにこの3作を通してみた感想としては
「ホラーの続編物にいいものなし」
という先入観は間違っているということだろうか。
いいものはいいし、だめなものはやっぱりだめなのだ。
ソアビィの「3」はそもそも続編ですらないけどな。

4作目(と称されている)もソアビィなのだけれども、実はこれはみたことがない。
内容はまったく見所がない、という話だけは聞かされている。実際どうなんだろう。
あまりにもひどい1作目のせいで、デモンズとついていると見ないということを繰り返してきたせいで見ていないのだけれど
(考えてみるとこの宣伝、逆効果なんじゃないのか?
機会をみつけて見たいとは思っている。
「5」「6」はソアビィが出ているせいでこんなタイトルを(日本では)つけられているけれども
「5」監督はランベルト
「6」の監督は、イタリアの最底辺映画ばかりを撮っているルイジ・コッツィということなので
見なくてもできはおおよそ想像はつく。
それでもそのうち、義務的に見ることになるだろうってあたりに、この手の趣味の豪の深さを感じる。
サイナラ サイナラ サイナラ。

バナーは3も’95も売り切れてたので貼らない。見なくていいだろ他は。




ちなみに「クトゥルフネタ」というと、製作者は馬鹿、作品はボンクラだと反射的に思うのは、この作品のおかげである。
ラブクラフトは感謝していい。
(もっとも、本当にクトゥルフと冠した作品にはロクなものがない)

そして書き終えたまま寝てしまったらしい。
ほんとうに疲れてるようだ(この映画のせいで)
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