りせっとさん
「何故あなたは都合よく過去を忘れるのか」「そこにリセットボタンがあるからさ」-ジョージ・マロリー(仮)-
これはなんですか?
いや、別にスネークマンショウを聞いていただけなんですが。

最近、脳まで加齢が進行していて困る。
「つまらない作品」と一口に言ってもいろいろあって
本当につまらないヴィンセント・ドーンの映画みたいなものから
ドーンよりはおもしろいけどドーンの鳥ゾンビでてくる「バイオハザードIII」はどうなの、とか
(別に映画がパクってわけじゃないんでしょうけどね(笑))
なにより、本当は心のそこでは面白いと思ってるけど、プライドとか体面とかもろもろのくだらない理由で嫌いを装っている作品とか
いろいろあるわけですけど
「うん、これは装ってるだけだな」
と内心思っているマクロスシリーズすら
5分持たないで熟睡してしまうのはどういうわけだ…

しかも、1作目ですら最近耐えられなくなってきている
むしろ、リン・ミンメイがでてくるとファビョッてテンションあがってくるという悪循環
私この女嫌いなんですよ
というか、物語の進行を遅らせるヒロイン、という存在が腹立たしいんですけどね、単に。
学園物とかアイドル物みたいわけじゃないんだよあたしゃ。
(それをマクロスでいっちゃだめだろうって話はありますが)

それでも、若いころはムカムカしながらもちゃんと最後まで見ることができたのですが
最近本当に寝てしまう
まあ、そもそも私がかろうじて見たのはマクロスプラスまでで
それも当時やってたバイトの関係上、仕方なく見る羽目になって、どうにかこうにかラストまでみたのですが
風車まわってたことと
山崎たくみの演技しか頭に残ってない
そんな私が7やら、最近やってたのなんだっけ、まあいいやそんなことは、その辺を見ることができるわけもなく
それでも、古い友人は私がマクロス好きだったことを知っているので、ネタふってくるんですよね
申し訳ないから返そうと思うけど、引き出しがまったくない
仕方ないのでみようと思うと、5分で寝てしまう
私がアイドルとか、ヒロインにいらっとくるのを知っている人たちばかりだから、設定とか世界観とか、そのへんから突っ込んで気を使ってくれているのが大変申し訳なく思うのですけど

5分じゃオープニングとちょっとしか観られないよな

ほんとにだめだと自分でも思う。
でも、寝てしまうんだ。
一人で見るからあかんのかもしれない。
でも、家族は韓国の変なドラマばっかりみてるから、一緒にはみたくないしなあ(笑)

そんなかんじですので、友人諸兄
これからはどうかお願いします 私には

超時空世紀オーガスを振ってください

これなら大丈夫、全然問題ない
ヒロイン空気すぎて存在感ない
鈍くさいデザインのメカも私的にはすげえかっこよかった
まあガンダムより重機動メカという価値観の私だからかもしれないが
モームと大尉のことなら3時間くらいぶっ続けで話せます
えっ02ってなんですか
モームのでてこんオーガスのこととかしらんですよ

たぶん、ロボメイドの原型ってモームなんだよなあ。
それを考えると、サブカル史でのオーガスの扱いが軽すぎる気がする。

ケーシー・ランキンの存在も大きいな、そういえば。
日本のドラマを語る上で、避けることのできない人なのに
「探偵物語」「俺たちは天使だ!」ときて
なぜオーガスとこないんだろう。
えっ、売れなかったからだろうって?





曲にそんなもん関係あるか



そういえば
エイラ・イルマタル・ユーティライネンのフィギャーがでるそうっすな!
やっと世界が俺に追いついてきた!
(コトブキヤからはもうでとるらしいけど、この世界詳しくないんじゃよ)
コトブキヤのほうが、アニメのエイラっぽいですが
新作のほうが私の脳内のエイラに近いようです
まあ、私自身はフィギュア飾る習慣ないので、画像見てるだけなんすけどね(笑)


観賞用

うーん。やはりエイラはいい

脇乳のあたりとか特に

正面から見るとえらいロリ顔なのが気になりますが
まあいっか。



最近、またレニ・リーフェンシュタールに関してのもろもろに目を通す。
この人ほど、黒という人、白という人、灰色という人、個人によって評価の変わる人も珍しい。
女性であり、才人である、という点は、無関係ではないだろう。
嫉妬、蔑視という感情は厄介なものだけれども、この人に関してはやはり、才能は認めざるを得ない。
「民族の祭典」などに出てくる感動的場面がやらせであったことは、既によく知られている事実なのだけれども、彼女は「映画」を撮っていたのであって、「ドキュメンタリー」を撮っていたわけではない、という弁護の余地はあるだろう。
TVの取材なんかを受けた経験がある人はわかることだろうけれども、「ニュース」ですらやらせであるのに、「劇映画」をその点で批判するのはどうかと思うし、批判をするのなら、厳密なリハーサルの上で「インタビューしてやってるんだ」という態度の「取材側が求める応答」を繰り返しリハーサルさせるのはやめるべきだろう。震災のときの「無理やり作った感動のドラマ」の出演者である被災者の顔に、色濃く疲労感が漂っていたのは、被災した苦労だけではないだろう、と、今でも思っている。
「タイミングよく」「偶然に」「取材しているカメラの前で」「生存者が再会する」なんていう偶然は、限りなく0に近い確立でしか起こらないだろうし、それが頻繁に起こる時点で、あれはニュースではなく、ドラマなのだという割り切りは必要だと思う。
それがけしからん、というわけでは必ずしもない。ニュースを送る側にしてみると、視聴率9割、1割くらいは「被災者への贈り物」という配慮もあったはずだ。取材された人にとっては、とんだ災難だったかもしれないけれども。

レニのやったことも、まったく同じだ。
彼女は、オリンピックをより劇的に演出しようとして、やらせを行ったわけで、しかもそれは奏功している。
そのバックに、ハーケンクロイツがはためいていなければ、現在に至るまで、誰も問題にしなかったに違いない。
「ドキュメンタリー」という視点にこだわる人は批判し続けるかもしれないが、映像の圧倒的な説得力を前にして、誰しも屈服せざるを得なかったに違いない。なにより、彼女の演出は、現在のドキュメンタリー、PV、イベント、あらゆるお祭りの基礎知識として流用されているのだから、かくも偉大な映画監督は、たとえばセルゲイ・エイゼンシュテインと並べられていたっておかしくないはずだ。いや、エイゼンシュテインの業績はせいぜい映画、アニメといったメディアに限定されていることを思えば、レニのそれはもっと巨大だ。彼女の映画がなければ、J-POPだのK-POPだのはいうに及ばず、あらゆるコンサートはずっとしょっぱいものになっていたはずだし、だとすれば、現在のサブカルチャーは、現在に至ってやっと昭和のレベルに届くか届かないか、かもしれない。まあ、仮定の話ならなんでもいえることだけれど(笑)
アグネスだって、あんな豪邸に住むことはできなかったかもしれない(笑)

アイドル文化というのは、特に「演出」で虚像を構築していくところに実相がある。
日本では、素材に対して作為を加え、修正してやることでアイドルを磨いていったのだけれども
韓国は現在、素材そのものを一度木っ端微塵にしておいて、大量生産ラインに乗せる、という手法をとっている。
あの国には残念ながら、民衆の文化、というものがない。ないために、文化は常に、既成概念の枠から起こす必要がある。
それが結果として「パクリ」「コピー」ということになっている。

中国は、いつごろ民衆に文化が広がったのかというと、宋代、北宋から南宋にかけてといわれている。三国志演義が成立したのもこのころだし、水滸伝は北宋の滅亡の物語だ。マ・クベで有名な「北宋だな」も、まさにこの時期にあたる。
北宋時代は、中国の分裂時代が終わり、ほぼ統一がなった時代に当たる。統一がなったとはいえ、内患は抱えており、しかもそれまでの諸王朝が軍閥割拠によって滅亡した教訓から、極端な文治主義を採っている。そのため、周辺民族(大きなところでいうとタングート)には物、金を与え、「平和を買い取る」という外交方針で一貫している。
このことは逆説的に、北宋の生産力が、周辺民族を養っていけるほど巨大なものであった、ということになる。
これが行き過ぎ、タングートは漢化し、国号を遼と定め、しかし生活は中華風になっても生産力が伴わないために経済が破綻し、やがて勃興した金によって滅ぼされることになる。その行き過ぎた平和代金の支払いと、内政の失敗によって、北宋も金に討たれることになってしまうのだけれども、それはさておき、北宋時代は、その結果として国民全ての生活水準が向上し、ゆとりのできた民衆が、娯楽を作り上げた時代に当たる。
為政者による文化と、民衆の担う文化というのは、質的にかなり違う。
その質的なものが出会い、融合し、あるいは影響しあいながら形成されるのが、結果としての「中国文化」ということになるのだけれども、その文化はこの時代に成立している。
分裂時代を経たために、そして、金によって華北を追われたために「失地回復」「忠誠」「王朝の正当性」というイデオロギーか盛り込まれた三国志は、劉備がヒーローとなる。国家のイデオロギーが文化に入り込み、民衆もそれに迎合しながら、さまざまにドラマチックな場面を作り上げた結果、三国志演義が生まれたわけだ。
水滸伝は、より庶民に近いところから物語は始まり、やがて失地回復の先鋒となっていくところは、漢王朝に殉じて無謀な北伐を繰り返した天才軍師とイメージがダブってくる。

こうして生まれたイデオロギー、文化というものは、すべからく歴史的な背景を元に作られている。というよりも、歴史をバックボーンに持っているのが当たり前なのだ。
為政者による文化というのは、「国家」という枠組みで考えた場合、非常に限定的で、偏っている。ようするに、そこには大多数の生産者の意識が反映していない。ということはつまり、トップダウン式の文化は、それが民衆レベルに持ち込まれた際、娯楽としては認識されない可能性がある、ということにつながる。
だって、畑耕したり、魚とって暮らすことしか知らない人に、いきなり権謀術数の貴族物語なんか持ち込んでも、つまらんでしょ。そこに、劉備や魯智心が入って初めて身近になる、という寸法。

日本ではこれが元禄時代に当たり、黎明期は安土桃山ということになるのだろうけれども、家康先生のおかげで、民衆の生活レベルは完全に凍結してしまい、ひょっとすると、生活水準の向上には、おもったより時間がかかってしまったのかもしれない。とはいえ、世界を見ても最大規模の人口を誇っていた江戸を見ると、日本人が思っているよりは、ずっと生活水準が高かったのかもしれない。
(道にうんこ流れてないし。もっとも、農業と密接に結びついた、立小便の文化はあるわけですが(笑))
それはおいとくとして、そのころ花開いた文化の主人公として選ばれた一人が、庶民出身の秀吉であり、家柄はそれなりにあるひともいるけれども、乞食にまで落ちたことのある塙団衛門や、後藤又兵衛、ちょいとランクが上がって真田幸村(しかし小豪族)というあたりになる。
秀頼生存説が流布していく背景には、判官びいきなどというよりももっと深い、「民衆の身びいき」というものがあったはずである。秀頼は貴族だけれども、元をただせば民衆と出自は代わらない。だからこそ、この貴公子を取り囲む諸将に人気が集まったともいえる。
(もっとも、注意すべきは、中央政権に対する仮想敵国が、依然として国内に存在していた事実も無視できないのだけれども)
そうした要因を踏まえて「歴史」が文化を形成し、結果として「武士の精神」というものを民衆が共有し、その共有が行き過ぎた形で暴発したのが明治維新の原動力の一つになっている。
(あくまでも、ひとつ)

日本の例では、運のいいことに、為政者側のモラルが民衆に広がるという、よい結果がある。
中国では、「礼は士太夫のみ」という意識が伝統的にある。儒教の国、ということで厳格なイメージをもたれがちだが、それは為政者側の話で、民衆には適用されない。そいつぁらくだ、と思うかもしれないけれども、礼節を求めないということは、動物としてしかみなさない、という意味でもある。結果として、かの国では人民の命が軽く、意識の上での格差が極端に開いていく、という結果になる。
日本はかなり特殊なんですよ。

ひるがえって韓国はというと、かつて高句麗や高麗という、領域だけ見ると朝鮮半島のかなりの部分を領有している国家があったりはするのだけれども、いままだに中国との間で「これはどっちの国史になるのか」という論争が行われていることからもわかるとおり、厳密な意味での連続性は、今の韓国にはない。
韓国側は、高句麗から渤海、高麗の連続性を主張しているので、そう断言してしまうのは御幣があるのだけれども。
朝鮮の地理的条件は、周辺国から常に圧迫を受ける地形であり、しかも隣国が常に巨大である、という致命的な立地になっている。そのため、ほとんどの時代で宗主国の影響から逃れることができなかったため、独自の文化、というものを形成しづらい。下手にそんなことをすると、民族意識の高まりから政情の不安定を招き、宗主国の逆鱗に触れることもあるため、務めて宗主国の文化を模倣した。その結果、韓国の文化は常に宗主国の模倣たらざるをえなかったことになる。
よく「日本は朝鮮から文化を輸入した」などという話が出てくるのだけれども、「朝鮮を経由した」ということと「朝鮮の文化の影響下にあった」ということは別のことだ、ということを理解する必要がある。中国と朝鮮、双方からの影響を受けた、といえばイエスだろう。

その後李氏朝鮮の時代を迎える。
李氏朝鮮は基本的に貴族社会であり、中国大陸や日本の社会から見ると、一昔前の社会ということになる。まだ民衆レベルでの生産性が低く、民衆による文化、というものが花開いていない。日本でいうとさしずめ、平安、鎌倉期、中国では漢代以前あたりになるだろうか。貴族文化はあるのだけれども、まだ民衆に、文化と呼べるほどのものが形成されていない(生活水準的にそこまでの余裕がない)という時代に当たる。
ネトウヨに土人扱いされるのが、この時代にあたる。ようするに、富が民衆にまで広がっていないためなのだけれども、まあ、見た目だけでいうならそういうことになるのかな、という感じでしょうか。
そのため、やや時代が飛んで韓国になると、「文化の担い手」である貴族への憧れが極端に強くなり、労働者、生産者への蔑視、つまり、文化を持たない者への差別意識というのが顕著になり、このため現実(つまり、文化の現在の担い手である大衆が、蔑視すべき層であること)とのギャップを埋めることが不可能になり、火病という、独特の疾患を生む遠因になっているのではないかと、個人的には思うのですが、そういうことをいっている人を見ないので、多分違うんでしょう(笑)

ようするに韓国の問題点は、ほとんどの先進国が歩んだ、下層階級のベースアップ、富のベースアップ、ということを体験しないままに、いきなり近代に突入してしまったことで、そのため文化というものをどう作ればいいのか、有り余るほどの外からの情報に比べ、文化の担い手であった貴族たちが突然消滅してしまったために、伝統的な文化、というものが断片的にしか伝わっておらず、結果として前時代的な「宗主国にこびる模倣」というスタイルの変形で文化を急造することになったため、「日本のコピー」と、民族的自尊心との兼ね合いから「反日」というイデオロギーに突っ走るしかなく、その自己矛盾のためにアイデンティティーが崩壊したまま、近代国家を目指すことになってしまったために、今の韓国はああなのではないか、と個人的には思うんですよね。
日本は確かにいろいろなものを置いていって、経済的なことに関しては十分なことをしてきたのですけれども、その一方で文化発掘というところまでは手が回らなかったために、ああいうことになっているのかもしれません。
(とかいいつつ、ハングル掘り起こしたり、遺跡の調査なんかもしてるんで、じゃあどこまでやればよかってん、と突っ込まれると、私もさっぱりわかりませんが(笑))

文化ということでいうと、仏教文化もあり、それなりに史跡も残っていて(もっとも誰が再建したのかは突っ込まない方向でいたほうがいいのかもしれませんが)、「それなりに」はあるのだけれども、あくまでも「それなりに」であり、日本人なら誰でも知りうる偉人とか、英雄とかいうものも乏しいため、近代から人材を発掘し、古代からもそれらしい人物を発掘し、なんとか歴史の体裁を整えて、「独自」を模索しているところなのかもしれません。
が、残念なことに、先に述べたように朝鮮には職人蔑視、労働者蔑視というアイデンティティがあるため、現代の文化の担い手は、貴族意識がありつつも、労働しています。
一方で、やたらに手先の器用な日本人は、彼らの価値観で言うと、帰化人(つまり、価値観でいうと蔑視の対象)の移民による国という意識が根強くあるため、「差別してもいい」というよりも「差別すべき人たち」という認識になります。現実に、優れた技術を持ち、無駄に働きますし。
であるにもかかわらず、コピーせざるを得ないという現実は、反日を掲げて自己欺瞞せざるを得ないのでしょう。
民衆が文化の担い手になるという過程をすっ飛ばしているため、多くの発展途上国といわれている国と、同じ状況にあるんです。スタートレックでいう「文化汚染」された社会ということで、アメリカ人であるロッデンベリーには、発展途上国への過剰な介入というものが、そうした悲劇を生むことが見えていたのかもしれません。

日本はというと、四面海、という条件から、他国の干渉を受けづらく、その反面、狭い国土で食っていかなければならないため、生産性の向上と言うのは、生きるための切実な課題です。
産業革命が始まったのが、同じく島国であるイギリスという点は、見過ごすべきではないでしょう。
このような背景があり、日本人は「生きていくために」技術革新に対して積極的であり、結果として行き過ぎた技術崇拝ともいうべき現状があるわけですが、それはちゃんとアニメーションや映画という文化にも反映され、欧米人からも「日本といえばメカだろ」という意識をもたれるほどに、サブカルではギミックの多い武器を持っているし、変に細かく変形するメカにのってます。これは立派に「日本の文化」ですよね(笑)
こうした技術崇拝があるため、朝鮮出兵でつれてこられた、とされる職人(つまり、朝鮮半島では差別されていた人たち)は、日本人にとっては尊敬すべき人たちであり、結局は居心地がよいために、朝鮮人というアイデンティティーを「職能集団」という位置づけで囲い込みつつ維持していき、それが明治維新という、もうひとつの技術、意識革命によって時代遅れのものとなったものも出てくるわけで、その結果として、職能集団という側面を失ってしまったいくつかの集団は、アイデンティティーのみで現状を維持せざるを得なくなり、結果としてそのことが在日問題の遠因になったのではないか、てなことも思ってますが、そんなこと言ってる人も見ないので、たぶん関係ないんでしょう(笑)

明治維新というのは、日本人が宗教的な狂気に飲まれた時代と受け取られがちですが、歴史学的には当然、技術の転換期にあたり、日本人が容易に欧米の産業革命へと乗り換えることができたのは、間違いなく、島国という事情に端を発する「技術革新への前向きな意識」ということと無縁ではないでしょう。
なにより、日本は既に民衆による文化形成という過程を経ていますし、大衆という点では、桂先生が危惧していたとおり「人民」にはなっていなかったのかもしれませんが(笑)、その点、アジアの中ではきわめて特殊な民族だった、といえるのかもしれません。

中国では、伝統的に学生が強いですが(これにも歴史的背景がありますが)、人民の総数からするとやはり少数で、かつてのヒエラルキーからすれば、中間層の士太夫といったところになるのでしょうか。そこから下層に、と身なり意識なりが拡散すると、あの国も少し変わるのかもしれないとは思うのですけど(笑)

韓国はどうなるんでしょうか。日本は、技術や文化が入ってきたとき、自国の伝統に従ってローカライズを行い、さらに、小さな国で使いやすいように改良を加えることで、結果として独自の物を持つことになってます。
ローカライズする手がかりがなく、職人に対する蔑視がある以上、韓国から独自のものを発信するのは、かなり生みの苦しみが必要かもしれません。
基本的に引用の積み重ねであるゲームは、韓国に向いた産業でしたが、引用に引用を重ねた結果、日本ですら新規のものはほとんど見られなくなり、韓国も完全に手詰まり感があります。
パチンコ産業を握っている国ですから、出球操作のノウハウが活かせるガチャ式収益システム「アイテム課金」というのは、金の卵を産むワイルドカードだったものの、それも厳しい状況です。
金がかからず、中毒性の強いソーシャルゲームは、日本でもかなり問題視され始めてますし、こと、日本では主婦層の怒りを買うと、一気に規制の方向へ流れていきますから、「子供だまくらかしてウマー」してきたツケが、今一気に押し寄せて、自分の首絞めてるというのが正直なところじゃないですかね。いや、わかんないですが(笑)

ようするになんの話かというと、韓国のオンラインゲーム産業はもう詰んでるし、映画産業は、数々の失敗作を世界にはなっている、韓国ドラマとK-POPは辛うじて日本国内で一定のシェアを(無理やり)確保しているけれども、飽きやすい日本人(これは新しい刺激に対して前向きであるという特質の、ネガティブな側面だと思う)がいつまでついてきてくれるか疑問。
デジタルアニメに手を出したけれども、中国市場で大失敗。ごり押しで日本にねじこむにしても、日本の映画産業は、まじめなところアニメの収益に依存している部分があるので(映画一本売って大人一人呼ぶより、アニメ一本売れば、子供におまけもついてくるから安上がり)、積み上げる額によっては首を縦に振るかもしれないけれども、ここんとこ韓国映画はまったく客を呼べてないので、おそらくは小規模になるのが予測できる。

韓国ローカライズされたテコンVに出会えるのはまだ先のようです。
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://roboko.blog41.fc2.com/tb.php/903-052bdfc4
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック