りせっとさん
「何故あなたは都合よく過去を忘れるのか」「そこにリセットボタンがあるからさ」-ジョージ・マロリー(仮)-
FLASH!
私もいい年なのだから
歳相応の文芸作品、そう、たとえばフェリーニなんかを観て
「今の映画人はわかってないよね」
などと自分が一番良くわかっていないことをほざきながら
閲覧者には愛想良く、神経を逆なでするような言葉は避けて
バラエティ番組の、あれだな
座敷童子報道でどこのチャンネル見ても判で押したように同じ事しか言っていない
「シナリオのある」否「脚本がきまっている」
毒も個性もなにもないことをたらたら垂れ流し
突っ込みに個性も知能も感じられない「私もフェリーニ観ました! 今の映画にはない壮大なセットで、多くの実力派俳優が素晴らしい演技をした映画でした!」なんてコメントに対し
大人びた対応をしているようで、じつはコメントの内容には一切触れずに自分の知識を延延垂れ流すようなレスをつけ
お客様を使って自分がいい気分になる
そんな大手サイトを見習えばいいのだろうけれども


根が子供なのだ


だからフラッシュ・ゴードンなんかを観ているのだ









ごめんなさい


もちろんこっちのフラッシュでした


監督のマイケル・ホッジスは「オーメン2」でホラーファンを
いろんな意味でどん底に突き落とした監督なのだけれども
確かになんのひねりもないんだ しかし前作のプロットをそのままやっちまったのは仕方ないとしても
氷の下を流れていく子供(凍結した川の上でホッケーをしていたので、氷の下はかなりの流れなのだ)という「目に見えているのに手が出せない」という恐怖演出は、なかなか堂に入っている
私はこのシーンだけで満点だと思う

ホッジスの癖は「生真面目」というところにあると私はおもっている
「オーメン2」は、生真面目に続編を作ってしまったため、観客を怖がらせることにのみ終始し、テーマや作家性などはない
(そしてこと恐怖、という点ではドナーの演出をすら超えている気がする)
ところがマイケル・クライトン原作の(氏の死去の際ネタにしようとおもったが、話が「フラッシュ・ゴードン」のほうにいくのはわかりきっていたのでやめた)「電子頭脳人間」は、単刀直入に言ってしまえば現代のフランケンシュタインであり、そしてこの作品は、もともとシェリーの優れたプロットの上に、クライトンのとんちが乗っかったような作品なので、別にホッジスが自ら作家性を発揮したり、テーマを盛り込まなくても、重厚なテーマが横たわっている
つまり、丁寧に原作と、原作が意図したシェリーのテーマを飲み込んで描き出せば、優れた作品になるのは約束されている
(あのトンチキな演出の「悪魔の赤ちゃん」ですら、そのおかげで評価されているから、コーエンはシェリーに足を向けて寝てはいけないだろう)
ジャック・ヒギンズ原作の「死にゆく者への祈り」では、当時「ナインハーフ」などでなんとなくエロイ方面の人気があったミッキー・ロークを迎え、結構なヒットを飛ばしたのだけれども、まさかミッキー・ロークがあんなハードボイルドな役を(失礼)と目を見張るほどの、硬派な男のドラマで、これまたホッジスは原作を丁寧に映像化し、雰囲気たっぷりの傑作に仕上げている

この3作品を見てのとおり、ホッジスは、与えられた素材に対し常に生真面目で、ホラーを撮れといわれればホラーを、ハードボイルドといわれればハードボイルドを、コメディといわれれば、そう、コメディも撮っているのだけれども、きっちり原作の雰囲気を継承して作品を仕上げる、おそらくは職人監督だ



フラッシュ・ゴードンの話をするといつもルーカスがとりあげられる
(2001年の話をすると手塚の話が出るように)
確かにルーカスはフラッシュを映像化したいと考えていたのは事実だ
しかしルーカスは「スターウォーズ」を観てわかるとおり、2次元のセンスと3次元のセンスは混同しない人だ
「HEROES」がルーカスの決定的な(ビジュアル面で)後継者である点は、コミックの世界の物語が現実に起きる、という絵空事を、実に丁寧に、大げさに、現実のビジュアルと融合させつつ表現している点
黒澤も「あの汚れがいいよね」なんてことを言ったそうだけれども、ルーカスの作品には、空想の物語の中に生活感がある
(作品を追うごとに希薄になっていくのはご愛嬌)
ティム・バートンは、空想世界を現実に再構築し、その突飛な世界観を説得力あるものにしてしまう役者の存在感と、強引な説得力で、より「コミックに近い」世界観を描いている
ルーカスの世界は、現実の生活の延長線上の未来(世界観的には過去だけれども)を描いているけれども、バートンの世界は現実とは交差しない。最初から異世界、パラレルであることを前提としている
コミックなどの映像化はだいたいこの2系統に絞られるのではないか、とおもうのだけれども
いや、壮大に金をかけて作品として破綻している系統もあるにはあるけれども
(失礼だからタイトルは言わない(笑))
じつのところ、原作に忠実すぎて困った作品になっている、というもうひとつのジャンルが存在している
フラッシュがそれに当たるだろう(笑)

ようするにホッジスは、馬鹿正直に原作をそのまま映像化した結果、「大人が見たコミック」という、子供が見るには何から何までオリジナルと違っていて、大人が見るには何から何まで荒唐無稽でばかばかしい
それをマックス・フォン・シドウやティモシー・ダルトンといった実力俳優が大真面目にやっているから始末が悪い
しかし、シドウには「ジャッジ・ドレッド」、ダルトンには「ブレンダ・スター」「ロケッティア」といった"前科"(現実には時系列的に後の作品だけども)があるので、本人たちは確信犯なのかもしれないが、特に映画マニアにとっては「なんじゃこれ」という配役で
「監督気が狂ったのか」
と心配になるのだけれども
どんな映画でもただの筋肉馬鹿しかやっていないサム・ジョーンズ主演ということで
ほっと一安心する
なんというか


配役からしてある種のジョークになっているのだけれども


いや、意図してるわけじゃないだろうけど(笑)
このあたりのさじ加減に「ホッジスが見たフラッシュ」というものが見え隠れしているようで、改めてみてみると、驚くほど原作に忠実なキャラクターであることに驚かされる
まず間違いなく「リアル」だの「現実感」だのといった、オタが陥りがちな演出上の陥穽を飛び越えて
「そのまんま」映像化したのだろう
宇宙空間をバイク(みたいなもの)で飛ぶのだって
ばかばかしいよな
ばかばかしいけど

フラッシュではこうなのだから仕方がない

ルーカスはそれを地上にひきおろして、針葉樹林を飛ばせた
懸命である
だから売れたのだ
どちらも「かっこいい」というキーワードから生まれ、構想されたものには違いないけれども
それを3次元映像に置き換えた場合の「間抜けさ、嘘っぽさ」ということを、ルーカスやスピルバーグは、ちゃんと心得ている
平成ゴジラの一部のシーンが、突き抜けて間抜けなのは、アイデアからもう一歩推し進めて「それが間抜けに見えないためにはどう説得力を持たせるか」という、捻りの部分にまで神経が回っていないことなのだけれども、じゃあこういうのはダメかというと、私はこういう稚拙さが、物凄く好きだ
馬鹿馬鹿しいが、愛がある
思いついた瞬間「オレって天才じゃなかろか」という、作り手の舞い上がりぶりが見える
ホッジスにはまったくそれはないが(笑)、物語を作るという、作り手のヴィヴィッドな感情がそのまま映像に載せられているような映像は、大好きだ
(それを確信犯的に、センスのなさを糊塗するための言い訳としてダサくとった作品は大嫌いだが)





ようするに、アニメのロボットを、そのまま三次元で活躍させると、たいていダサくなってしまう理屈だ
スーパーロボット大戦が、2頭身に逃げたのは懸命な判断といえる
そのまま3Dにしてしまうと、新スーパーロボット大戦がいまいち売れなかったように、でくのぼうがぬぼーっと突っ立っているようにしか見えないからだ
映像の世界で、そうした「嘘」を格好よくした人物は何人かいるが、その一人がシド・ミード
彼は工業デザイナーなので、架空のなにかをデザインする場合でも、そこには「目的に応じた機能、形」が盛り込まれている
アニメは逆にそれを取り入れ、それを最も先鋭的に取り入れたのが永野護あたりのデザインで、「このパーツは一体何のためについているんだ?」という、機能美というにはあまりにも漫画的な造型はのこされているものの、現実的なデザインにぐっと近づいている
Gセイバーについては、別の機会のネタにしよう(笑)
近づいているとはいえ、実写でそれをやれば間抜けなことに変わりはない。

ホッジスの場合、この奇跡のような馬鹿馬鹿しい作品は
ディノ・デ・ラウレンティスという、企画先行で大味な大作ばかりをぶち上げ、イタリアーノかつ大雑把なセンスでくるむプロデューサーに恵まれたこと
理解ある(?)大物役者と、わかりやすい主役を得たこと
「オペラ座の夜」が生み出されるまでは、本国では「馬鹿の聞くロック」という評価しかなく、大げさでテーマも何もないがやたらにメロディアスかつセクシー(主にフレディの胸毛)ということで、日本人に絶大な人気を誇っていたQUEENを音楽担当に迎えられたこと
フェリーニ映画と同様の巨大なセットを組んでみたり、おそらくフラッシュがどんな作品なのか知らないまま突っ走った美術担当のダニロ・ドナティの存在
(「カリギュラ」なんかもやっているので確信犯なのかもしれないが、パゾリーニの「奇跡の丘」でアカデミー賞も獲得している巨匠中の巨匠だ)
ホッジスが天然だったこと
これらがまさに、奇跡のようなアンサンブルを奏で



いや 奏でないほうが良かったという話もあるが


大人が見たコミックの大人気ない映像化
という、夢の作品を生み出したのである
同じラウレンティスの「バーバレラ」は、確信犯的で、その筋の人の受けを取りに行った作品なので、こういう仕上がりにはなっていない
テイストは似ているけれども。
おそらくホッジスは、完成した作品に対する酷評に対して「なんで?」と首をかしげていただろう



だってフラッシュってこういうものだろ?



しかし、観客の求めているものは、ちがったのである
観客の求めていたのは、胸に変なマークの入ったシャツ男ががっつんがっつん殴る映画ではなく
その前に見た、荒唐無稽だが「リアル」という、観客が「漫画なんか見て」という後ろめたさから逃げられる言い訳の用意された「スターウォーズ」みたいなものだったのだ
ルークの服がすごく安上がりだったり、オビ・ワンが水素の抜けたバルーンみたいにぷしゅーっとしぼんでも、胸に変なマークはダメだ
1978年に「スーパーマン」も公開されているし、ホッジスは「いいだろう」と思ったのかもしれないが、スーパーマンは作中でもあの変なケープとぴっちりタイツを馬鹿にされている
あの姿は変だ
という前提の世界、ようするに現実の延長なのである
このフラッシュの世界は、現代から未来にも過去にも、どこからどうひっぱったって現実とは交わらない
フラッシュの姿を見て笑うやつは独りもいない世界なのだ
たとえ話題にビートルズが出てきても、だ
ホッジスはそれでいいと思ったのかもしれないが、設定や言葉では感じられないリアリティというものが、ついにこの人にはわからないのではないか
(そもそも冒頭では旅客機に乗っているのだから、もっともリアリティある演出といえる「はず」なのだが、その前振りとして、マックス・フォン・シドウの実に楽しそうな馬鹿笑いで幕が上がっているので、このシーンと現実との接点を見出すのはとても困難になっている)
それが「フラッシュ・ゴードン」なのだと私はおもっている
だからこそ、大好きなのだ
監督の不器用さと真摯さがびしばし伝わってこないだろうか

駄作といわれながらも、この作品は全世界で、きっちり固定ファンを獲得している
そこにあるのは、作品に対する愛情と同時に
生真面目に原作を映像化しようとした、ホッジスの不器用さに対する愛情なのかもしれない。


金の使い方は 大いに間違っている気はするが。


じつは近年ドラマ化されていたのだけれども、これこそが当時観客が期待したフラッシュなのだろう(たぶん)

サムもゲストで登場している。作り手の愛情を見るような気もする。
(単に流行だったという話もあるが)


やっぱこれだろこれ

昔は自分で輸入するか、輸入雑貨専門店にちょっぴり入ってくる在庫をゲットするしかなかったのに、いい時代になったなぁ
服のしわとかが妙に再現性が高く、アメ公のセンスが良くわからなくなってくる瞬間。
まぁ日本のフィギュアがパンティとまんこの造型にこだわるのとひとつ理屈なのかもしれないが。


売り文句が

伝説のコミックと、とQUEENしか書くことがないところに哀しさがある
他にもあるだろう
「フェリーニ映画の常連が衣装を担当!」とか。
「アマデウス」ならそう書くんだろう?
サムがでくのぼうとほうぼうで書かれているが、そもそもフラッシュはただのスポーツ・ヒーローだったわけだし、あの配役と演技こそ「リアリティ」という気がするのだが、そういう方向性は求めてないって? ごもっとも。
でも私は、ラストの彼のジャンプがひどく気に入っている。この作品の良いところは、彼の笑顔に代表される「罪のなさ」だとおもう。
娯楽作品としては地に落ちてしまったスターウォーズシリーズと見比べていれば、この作品にこそ、良心があるような気がするのだけれども、どうだろうか。
彼の笑顔が、バルタンたちがばしばし撃ち落されているシーンを、凄惨なものにしていない。
貴重な笑顔だと思う。
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://roboko.blog41.fc2.com/tb.php/603-91fbff35
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック