りせっとさん
「何故あなたは都合よく過去を忘れるのか」「そこにリセットボタンがあるからさ」-ジョージ・マロリー(仮)-
Kiss this
ネタにしようとおもってログインし
即座にネタを忘れてしまうのはどうにかならんのか
この鳥頭!


とあるサイトを見ていて見かけた言葉
「ビルバインカッコいいよ!」
私も同感だ!



シーラ様からのプレゼントだもの!



このころは緑髪フェチだったんだなあ私。

開発に手間がかかる割には、こけるとどうしようもないのがゲームの世界
そんなリスクを回避するために、最近はブラウザゲーが主流になりつつあるようで
まあ、クリックゲーならそれで十分だよなあ
アリスソフトがやってくれんか。あのシステムならブラウザで走ると思うんだが。
なんでアリスなのかというと



ロボ子の宝庫だから



理由なんて、そんなもん。
ていうかマドカで緑髪繋がりとかわかんないから、それ。


で、改めて書き始めたはいいが
さっぱりおもしろくない
くすりとも笑えない
何書いてもだめ、ってときはあるんだなあ
なので消してしまった
まあ、いつもだってそんなに面白いことかいてるわけではないけど。
そういや911報道も、ネタとして飽きられたのか、ネタが尽きてしまったのかあまりみないけれども
むこうじゃまだまだ元気なようで
陰謀論とか好きだから、もっとやってくれんものかのう
不謹慎なといわれそうですが
電話しながらふたりでNHKみてて、飛行機突っ込んだ衝撃は今でも忘れない
あの程度のことじゃ世界は変わらない
と悟った瞬間でもあった気がする
風化させないよう、バラエティにしてしまうのもありなんじゃないの? と最近はおもったりもする
繰り返し反芻しないといけない話題ってのは、あるよ。やはり。

まあそんなかんじで
もろに911の影響下生み出されたバトルスター・ギャラクティカの最終シーズン始まったので、よけいに更新する気がわかない
ぶっちゃけ「なんだ、ギャラクティカじゃん」としょんぼりしてしまったガンダム00のことをおもいあわせつつ
いや、パクったり影響受けるのはいいんだよね
ただ、一本柱の通ったものがないのは、とてもこまる
コンセプトが定まらず、あっちいったりこっちいったり、色気出しすぎてこけてしまったエンタープライズを思い出すたびに、やっぱり大事なことなんだなぁと


われわれはおっぱいにこだわります


それも立派なコンセプトなんだけどなあ
初志貫徹できなかったあたりに、監督の限界を感じたりしないでもないですが
まあ、批判できるほど賢くないから、それはいいや。

大事なのは




911で検索するとポルシェ・カレラしかでてこない楽天のほう




何か間違ってないか、それ!
おっぱいぶるんぶるんゆれるカレラもそれに含めてあげてください
ってそれネタわかんねえから!

カレラ
元ネタだからヒットしてもいいはず。
nobody expects the spanish inquisition
巡回先のリンクをいじっているうちに、なんだか不愉快なサイトに突撃してしまうことってないですか。
自分が似たようなことやるくせに、批判サイトって嫌いなんだよなあ。
まあ、読んで行くといちいち根拠もしっかりしていて、批判する側に正当性があるし、ぶっちゃけこれは批判されてるヤツのほうが悪いよ、とは思うんですが。

私自身、ええかげんな知識と自己顕示欲と自己満足で、無責任に適当なことを書いているから、批判される側の立場というのがわかるというのもあるんですが、なにより



あとから調べればそりゃあ一分の隙もない批判はできるでしょうよ



ってことで
ようするにやってることはたいして変わりがないんだよなあ。
そのくせ俺の方が一段高いところにいる、みたいなスタンスが腹立たしいし、なによりそれだけ理詰めで話をすすめられると「すごい」と錯覚してしまうところなんかがな
適当な話をずらずらっと並べて粉飾してる文章と、どこがちがうのかと。
こういうのはじゃんけんの後出しだと私は思うので、納得はできても好きにはなれんのです。
だってこういう人って批判はできるけど、自分は絶対に先鞭つけないじゃん。ディベートにおいて有利なのはやっぱり「揚げ足取り」だし。
まあ、批判されたら
こんなときはやはり高らかにHA HA HA!(悪魔的笑い)と誤魔化すしかないだろうなとおもいながらも、今日も投げやりです。

スペイン宗教裁判といえば、メル・ブルックスもアレやってる頃が一番元気あったよねえ


バトルスター・ギャラクティカ風味のジューイッシュ

踊ってるラビがすごく好きだ

洋画を見る人間というのは、洋画至上主義の人が多い
なんで? といわれても、多いのだから仕方が無い。
おもうに、なんとなくインテリ臭く見えるからなんだろうと思う。
あんたどうなん、といわれると、私もそう思う。洋画の方が絶対にいい。
ちっ底の浅いやつめ、といわれる前にちゃんと言い訳しておこう。

洋画というのは言葉の壁がある。当たり前だけど。
邦画には当然、そんなものはない。ン十年もネイティブで親しんでいる言語なのだから、大抵のセリフは問題なくわかる。
ここが問題なのだけれども、つまり邦画の場合「言葉を理解する」というワンステップが、鑑賞するうえで必要がない、ということになる。
これは裏をかえせば、それだけ深く対象を見つめることができる、ということになり、つまり、言葉のニュアンスや抑揚が、特に意識しなくても伝わるし、くわえて演技もかなりシビアに見ることができる。
洋画の場合は、まず文化的な差、というのがある。私たちが知っている連中の日常というのは、ほとんど作品世界のことであって、現実にはどうなのか、体験してみないことにはわからない。言葉にしてもそうだ。演じている抑揚と、日常会話のニュアンスや違和感などは、わかるはずもない。
そこいくと邦画の場合、いかにもとってつけたような抑揚で「素人くさい」と感じることもあるだろうし、違和感のあるシチュエーションで「それはねーよ」と突っ込みたくもなる。ましてアニメだと、アニメ声というのはかなり、気持ち悪い。作品世界の中であれほどしっくりするものが、現実世界に飛び込んでくると、なんであんなに気持ち悪いのか不思議なほどだ。ようするにアニメーションそのものがもともと戯画だから、オーバーアクトの方がしっくり来る、という裏返しなのだろう。

たとえば、名優グレゴリー・ペックは、ネイティブでない私から見ても、かなり棒読みだ。声質のせいもあるのだけれども、細かな演技というのがない。逆に言うと、抑揚にトップとボトムしかないので、舞台役者の演技なのだということはわかる。だから、映像世界に飛び込むと違和感がある。でも、同じ舞台出身のローレンス・オリビエなんかと比べたら、やっぱり大根なのは否めない気がする。
それがたいして気にならないのは、作品の選び方というか、キャスティングの妙と、その朴訥な演技がはまるシチュエーションだろう。ダミアン父の演技も素晴らしかった、ローマの休日で見せた、不器用な新聞記者も素晴らしい、カリオストロの城をこれのパクリだとかWIKIにかいて突っ込まれてた気がするが、ルパンよりも断然ストイックで、かっこいい。比べるものじゃない。パクリもなんも、別物だよ別物。あれは浪花節だからいいのだし。

もしもこれが邦画で、キムタクがペックの位置にいたとしたら、どうだろう。もう、それだけでしらけてしまうんじゃなかろうか。上手い下手以前に、あきらかに脚本に沿って演技しているさまは、たぶん見るものをひきつけない。それは私たちが日本人だからで、アメ公の目から見たら、また、違うのかもしれない。


だから、洋画は素晴らしい


細かいとこ気にしなくて済むから。
それでもキャスティングが噛みあわないと、「ブラジルから来た少年」のペックのように、なんかぬぼーっとした死の天使になっちゃったりはするんだけれども、そのくらい違和感があると、さすがに言葉の壁があってもどう仕様も無い、ということなのかもしれない(笑)
同じ「ローマの休日」の中でも、自然体の魅力がはじけているオードリー・ヘップバーンと、つくりもののぎこちなさがキャラクターとしてしっくり来るペックとが違和感なく溶け合っているのは、撮影のウマさもあるのだろうけれど、言葉の壁もあるように思う。私はそう思う。

ちょうど批判ブログに、ネーミングセンスのことも書いてあった。
批判されている人は、なんでもアメ公のセンスは素晴らしい、といっていたらしい。
でもさあ。洋画のタイトルの歴史見ている人なら、とてもそんなことはいえないよね、と、その点は共感できた。

今は単にカタカナにするのが主流で、そのほうがなんとなくおしゃれなんだろうけれども、古い洋画の邦題は、タイトルに凝ったものが多い。
もっとも、凝っていないものもそれ以上に多いけれども。
ホラー映画はそういう屑タイトルの宝庫だけれども、じゃあ大作のセンスがいいかというと、それはまた別の話だ。
どちらかというと、漢字の文化を持っていない欧米の作品は、ストレートなネーミングの方が多い。もちろん、そういう複雑さを組み込む上でのアナグラムなんかもあるわけだけれども、チャールズ・ブロンソンのDeath Wish


ブロンソンかっこいい

家族が陵辱されたり殺されたりとヒドイ目にあい続けるポール・カージー(ブロンソン)の物語で、都市犯罪における警察の無力さに怒りと絶望を感じ、自らハンターとなって悪党どもを射殺して行く(つまり、やつらの死を望む、てな原題)
すごくわかりやすいタイトルだけれども、邦題は「狼よさらば」だ。
なにが「狼」なのか、なにが「さらば」なのかは、見終わったあとでもさっぱりわからないが、深読みしてくれ、という、なかなか奥ゆかしくも味わいのあるタイトルだと思う。狼は街のダニのことかもしれないし、カージー本人のことなのかもしれないし。
まあ、続く2作目以降は「ロサンゼルス」「スーパーマグナム」「バトルガンM16」「キング・オブ・リベンジ」と、ワケの分からなさとともに知能指数も下がっていくのだけれども、「良いタイトル」であるとか「センスのあるタイトル」というのは、やはり売れる必然性のあるところにしかついてこないものなのだろうか。そんなこともないのだろうけれども、やはり、売れないものはワッハッハと悪魔的笑いをしたくなるようなものが多い。それは洋の東西を問わない。

**だからこうだ、かくあるべし、という断定的なことは、少なくともサブカルチャーにおいては禁句だと、私は思っている。あまりにも例外が多すぎるからで、ことに映像文化は、歴史が長い分、もう収集がつかないところまできている。活字文化なら、なおさらだろう。
包括的に語った方が楽だし、私もそういう安易さを求めて(ようするにめんどくさいから)ざくっと「こうだ」という書き方をよくするけれども、実際には、作品ひとつひとつに対して丁寧に吟味すべきことなのだと思う。まあ、吟味に値しない作品も多いけど(笑)

共通項が見えてこない、意外性があるからこそ面白いと、私は思っている。
無敵
飯田規和の訳は、すごく読みづらいとおもうんだ

いきなりなんのこっちゃといわれそうですが(笑)
学者の書いた文章って、やっぱどーもおもしろくないんだよなあ。
だからって野田元帥や戸田奈津子がいいというわけではありませんが(笑)

まそんなわけで
訃報続きなので寝る
くー
クーのセレクトボックス2001の
ケンのはずれ感はなんとかならないものか
いや、買わないからいいんだけどね(笑)
マックスさんとダイスケさんなら、まだ嬉しいんだがな…
と、下書きのまま放置していたら話題が風化している罠。


しかしなんつか、相変わらず早とちりが多いな私は。それで切れるんだからしょうがない。相手に怒ってるんだか自分に怒ってるんだかっ、てところも含めて(笑)


なんとなく山岡荘八の「毛利元就」を読み始め
なんとなく大内義長について調べる
いや、ほんとになんとなくなんですけどね(笑)
山岡荘八って、面白いんだけど、主人公の描かれ方が最強すぎるので、ひねくれものの私としてはいまひとつ感情移入できないんですよ。同じ山岡作品でも、眼帯ですっ転ぶ伊達政宗になら感情移入できるんですが。
<いや、それNGだから

ほとんど二日間、とあるゲーム関連と、PCのヘルスケアのために寝ていません。その甲斐あって、なんとか、かなり安定してきたようです。これでブルスクこなかったら、少々の不具合はどうでもいいんですが。あれだけはかんべんしていただきたかったので。
ブルマとスク水なら大好物ですけどね!
とかいたのも、もう一週間近く前。
不眠不休のケアの成果か、その後ブルスクはでておりません。油断はできませんが。
もうかんべんしてよ。



というわけで、つづき。


ちょっと「ペットセメタリー」も絡めようかと調べていたら、いつのまにかエドワード・ファーロングの項目がめちゃめちゃ削除されてしまっているような。WIKIの話ですが。
人気がなくなるとこんなものなのかね。

さて、ビジュアルパンク系で一見ゴシックなクーも、縞パンなので実はエロゲー向きのキャラだとわかった前回ですが
えっ、そんな話してない?

「乙女の祈り」は実際の事件をモチーフにしたものですが、もちろん、作り話にも少女による殺人、というものは結構あります。
ジョディ・フォスター主演の「白い家の少女」は、一見無気力に見える少女による殺人を、淡々と描いた作品です。
父親の遺言を絶対のものとして、エディプス・コンプレックスかとおもわせる導入から、母殺し、その隠蔽のための殺人と次第にエスカレートしていき、共犯者となっていく少年と恋に落ち、その少年の死を契機に、再びおとなになることを拒絶したかのように白い家に閉じこもり、さらなる殺人を、というような物語なのですが、別に血しぶきが飛ぶわけでもなく、全編に流れるショパンの調べが象徴するような、ひどく静かだが、しかしどこか壊れているという少女が美しいです。肝心の恋人役の少年が、いかにも頼りなさそうな、へなへななあたりも素晴らしい(笑)

ここでサスペンスとして効いてくるのが、マーチン・シーン演じる男で、こいつが、なにか感づいている、くさい、という様子でジョディにつきまとい、現在で言えば完全にストーカー行為なんですが、彼の行動がジョディを追い詰め、壊していくスパイスとして、実に良く効いてます。やっぱ、マーチン・シーンは変態じゃないとね!
(刑事コロンボ「毒のある花」でも、似たようなチンケな小悪党を演じて殺されます。マーチン・シーンあんた最高だぜ!)
これ、少年だと全然ダメなんですよね。主役が。
少女だからこそ、テリトリーに無粋に侵入してくる者たちへの、過剰防衛というのが、心理的に許されるので感情移入できるのだし、これが男の子だと「我慢のきかねぇガキだよな」といわれるのがオチです。差別だね。

どんな相手にも冷然と応対するジョディですが、マーチン・シーンがやってくると、表情にかすかな怯えが走るんですよね。理由はもちろん「事実を知られているかも知れない」ということにあるんですが、マーチンとジョディは、結果的に、ふたりとも極めて利己的で、自己の利益のためならばどんなことでもやりかねないというところがあり、一方でマーチンには既に道徳心も、道義的なしろめたさもないんですが、ジョディにはかすかだけれどもそれがあり、そのことが少年にすべてを打ち明け、共犯者へ仕立てていく過程につながっているのかもしれません。そのあたりの微妙な心理がラストへつながっていく様は、サスペンスとして一級と言っていいと思います。


以前もネタにした「悪い種子」は、遺伝的に悪が遺伝する、というお話です。お話なので、そういうことにしておきましょう(笑)
無邪気な子供の欲望と、直線的な行動、それを覆い隠す天真爛漫さ、と、この手のストーリーでは基本的な要素がすべて詰まっています。
いくら遺伝子のせいにしても、子どもがいともあっさりと、欲望のために人を殺してゆくストーリーと言うのは、当時としても相当にショッキングで(逆に今はもう作れないジャンルかもしれませんが)、映画化に際し、批判をかわすために因果応報、そして陰惨なラストを帳消しにするため、楽屋落ち的なカーテンコールまで用意して、制作側の苦労というのが偲ばれます。「なにあのラスト?」という印象はあると思いますが、それだけストーリーがセンセーショナルだった、ということです。
主演のパトリシア・マコーマックは、舞台でも同じ役を演じたということで、なるほど、この堂に入った悪党ぶりも納得です(笑)
早熟な天才子役というのは、往々にしてその後が悲惨ですが、マコーマックも御多聞にもれず、ウイリアム・キャッスルの「燃える昆虫軍団」で、私のようなB級マニアのぼんくらに記憶される程度の地味な活躍をしたあと、TVシリーズ「ザ・ソプラノズ」で活躍した以外はぱっとした出演歴もありません。素晴らしい子役、というのはつまるところ「子供とは思えない」というところにあるので、裏を返せば、大人になってしまうと凡庸たらざるをえないのかもしれません。美人なんだけどね。
日本では、子役になること自体に政治力が必要だったりするので、凡庸なまま大人になって、なんとなく主演やってることもありますが。

同じ「悪の種子」を映像化した作品にはもう一作、「死の天使レイチェル」というのがありまして、こちらはカラーですが、TVMです。予算はかかってないです。(原題はどちらもThe Bad Seed)
ローダ役のマコーマックは踏んづけても死ななそうなくらいタフな少女ですが、レイチェル役のキャリー・ウェルズは、一見してふりふりでリボンでふわふわのヘアーで、という、ロリータ度がパワーアップした少女です。ローダは殴られても蹴りが飛んできそうですが、レイチェルはその場でめそめそ泣き出しそうです。
シナリオは基本的に同じ(落は異なる)ですが、二人の主役の対比によって、印象は全く別の作品になっています。
ローダは欲望に忠実で、倫理観の欠如した、いわゆる「血も涙もない」という比喩がしっくり来る少女ですが、レイチェルの方は一見まともなので、彼女の儚さ、か弱さの裏に隠れた、並外れた欲望の強さと、独善的な思考というのがひどくアンバランスで、その落差がローダとの印象の違いを際立たせています。

簡単にいえば、ローダはキ印、レイチェルは純粋な犯罪者の怖さです

どちらがゴシックかといわれれば、おそらくは後者で、だからこそ二人を比べた場合、底抜けに明るくて健康的なローダは、陰惨な犯罪者ではなく、先天的なきちがいにならざるをえないのでしょう。
病んでいるといえばどちらも病んでいるのですが、無自覚に犯罪に手を染めているものと、自覚的に犯罪を行っているものとの対比をした場合、それが子供であればなおのこと、怖さが増すのでしょう。ダミアンも、少年のまま3にでればよかったのにね。
エラリー・クイーンの長編には、やはり無自覚な子供の犯罪がトリックとして出てきますが、「子どもが犯罪なんてするわけがない」という思い込みを逆手に取るのは、サスペンスの常套手段とも言えます。
これは「女の子が」ということにもあてはまり、特に実生活でもよくお目に掛かると思いますが、女だってなあ、本質的に人間である以上、たいして精神構造に違いあるわけでなし、犯罪はするよなあ、と理性ではわかっていても、世間的な印象操作で、一応「そんなことはない」というイメージが出来上がってますから、安直に受けを取りに行くなら、極めて有効なスパイスです。
どうでもいいことですが、「死の天使レイチェル」にもデビット・キャラダインが出ています。ほんと仕事を選ばない親子だな。

実は同様のモチーフが日本にも(TVMですが)ありまして
それが大林宣彦の「可愛い悪魔」
特にクレジットはされていなかったと記憶していますが、おそらく、「悪い種子」にインスパイアされた作品でしょう。
時代背景もあり、直接描写が皆無な「悪い種子」、TVMという制約上、子供がらみの放送コードにはうるさい「死の天使レイチェル」にくらべ、すくなくとも露骨に「殺人」を描いた先駆的作品の一つとして記憶にとどめられてもいい作品なのですが、TVMですからねー、日本のTV業界の映像ソース管理のずさんさから見て、もうマスターは紛失してるんじゃないでしょうか。
個人的に「金魚鉢殺人」という、笑っていいものかどうか悩む画期的な殺人方法で記憶に残っているのですが(笑)、こういう苦しそう系はいやです。
いかにおっぱいを必然的に画面に写すか知恵を絞った映像業界ですから、少女による殺人、というモチーフは、その後怨霊の仕業にされたり、ロボ子になったりと、手をかえ品を変え、出てきます。

映像作品は件の如しで、なかなか直接表現というのはないのですが、じつはゲームの世界にそれがうけつがれます。
「可愛い悪魔」が1982年。
「狂った果実」が1992年。
ちょうど10年間あるわけですが、この狂った果実、エロゲーです。
この当時流行した「抜けない鬱ゲー」のひとつで、こういう作品が出てきた背景も、いろいろと面白いんですが、それは割愛するとして。
いきなりパーティ会場で死者が出る、というパターンは、おそらく1976年の「オーメン」の影響ではないかと思えますが、いかにもロリータなヒロインの外見や、残酷な殺害手口、目的のためには手段を選ばず、良心の欠片もないところなど、両作品には共通点が多く、おそらくは前者を見て育った世代が、パクリと言うよりも、再びああいう作品を、と作ったものではないかと思っています。
友人は「狂った果実」のヒロインを絶賛していますが(笑)、「可愛い悪魔」もみていただきたいものですね。

おそらく、こうした「血に狂った少女」という画題は、これら映像作品の系譜からなる作品群から、強く影響を受けていると思われます。
そのため、ほとんどの少女はひどく冷酷で、ロングヘアーで、リボンで、ロリータで、ちまみれで、それはおそらく「可愛い悪魔」の強烈なインパクトをそのまま引きずったものではないか、と、私は考えています。類型的すぎますからね。グレイタイプの宇宙人が出ると、目撃例がみんなグレイタイプなる理屈。

ローゼンメイデンが生まれる背景には、つまるところ「可愛い悪魔」があり、「悪い種子」があり、その中で商業的に許される範囲の妥協点をアリスゲームという、なんか木刀争奪してあげく滝つぼに飛び込むような、なんだかよくわからない展開にすり替えてしまったものなのかもしれません。たぶん、ゲームそのものにはなんの意味もないんでしょう。

帰宅すると恋人がシャワーを浴びている

そんな無理矢理な必然性が生み出した、詭弁なのかもしれません。
でもな。作品の要素って、そういう詭弁が積み上げられ、その虚構が世界としてまとまったときに開花するものだと、私は思っているのです。
別に意味なんかなくったっていいのです。
血まみれで
ゴスで
硝子のように無表情な目から血の涙を流す
少女
ビジュアル的に「それがいい」なら、その必然性を無理矢理にでも作ればいいじゃないか。
私の、シナリオとか脚本に対するスタンスは、その程度のもんです。



少女は狂ったぐらいが気持ちいい



ヒステリーはうざいけどな。
きちがいとヒスは違う。


人間椅子

なんの関係がっ
まあ、横溝作品も、少女ではないけれども「女が犯人」(のことが多い)てのがあるので。心理的には同じものなんでしょう。日本情緒的なゴシック趣味だと、たぶんこうなるのだろうなと。
シドニィ・シェルダンもそうかもしれない(笑)いや、あれゴシックとはちゃうねんけど。
続くと書いておいてなんですが
書きかけで止まっております。
下痢がひどくて寝ておりました(笑)

そんなわけでちょっと息抜きを。

最初はわりとなめて掛かっていた「チャック」ですが、おもしろいなあ、これ。
「中学生かよ!」てなかんじの、すれ違いだらけの恋愛を主軸に据えつつ、物語の全貌が徐々に明らかになっていく展開は、キャラクターを追っかけていても飽きないし、シナリオを追う上でも良い息抜きになっています。ヒロインのツンデレっぷりというか、最近のデレっぷりは素晴らしいね!(笑)あんた歳幾つ!(笑)
一見朴念仁に見えるケイシーの鋭さと大人の配慮に口元がにやけます。いい男だよ、あんた。こういうキャラ大好きだ。
さりげなく周囲の恋愛感情には気がついていて、本人たちのしらないところで的確にフォローして行く辺りがすばらしい。こういう大人になりたいよな。
適当にアクションもあり、ドラマもシンプルなようで、次第に全貌が明らかになっていくし、適度なお色気もありで、寸止め感というか肩透かし感も手伝い(主にエロで)、80年代のアニメを見ているようです。そう、少年向けの。スーパーロボット系とか。
チャックのキャラクターも「こういう莫迦はイライラするよな」という、脚本家の無能をさらけ出すような間抜けぶりはあまり発揮しないし、間抜けなことをやっても、本人がそれをフォローしようとしていくし、周囲よりも自分がドツボにはまっていくのでイライラ感が少ない。こういうキャラって扱い難しいんですが、素直に好感持てますね。

一方トーチウッドの方は。
今頃気づいたけど、これって



SRI?(笑)



そうか岸田森なのか、キャプテン・ジャック(笑)
すごい納得した!
もっとエイリアンVSトーチウッド的な展開を想像していたのですが、どちらかというとX-FILES、てよりは怪奇大作戦ノリですね。
毎回小ネタを膨らませて、時にものすごい嫌なオチを用意するあたりとか。さすが島国。日本人とこのあたりには似通った感覚ある気がします(笑)
過去の感情の残滓から幻視をしてしまう話や、ロボ子萌の話(でもあのデザインはなんとかならんかったのか(笑))、はたまたリトル・グリーンマン(異星人ネタではない)という感じで、人間性をトンデモネタにくるんで物語にしてしまうという、古典的なSFの匂いがします。そりゃおっさんたちは狂喜乱舞ってとこでしょう。
でもガキンチョにはどうかな(笑)
怪奇大作戦を傑作、とかいって、ほとんど新興宗教ノリで崇拝しているようなタイプの人には受けると思いますが、もっとエンターテイメントなものを期待していると、とんだ肩透かしですね。私は好きだけど、世代的にどうなんだろう、こういう、裏に重いテーマがあるってのは。
今の主流って逆で、登場人物がいつも深刻な面してうんうん唸ってる割にはドラマそのものは軽薄、という感じのものを社会派だというのがオタの主張って気がするし、そこいくとやたらキスシーンばかりのトーチウッドって、なにか違う気がする(笑)

社会派とか、問題提起のあるドラマって、役者なり登場人物が深刻な顔してるかどうかってのは、関係ないと思うんですが。個人的に。

地味に最近やってるのが、以前AEさんも紹介していたトラビアンの自称後継作(笑)、ブラウザ三国志。
内政武将を育てるのが楽しい(笑)
このあたり、カードゲームの様相が強く、戦争システムも未熟で、ゲームとしての完成度はまだまだだと思いますが、対人関係は人任せで、まったり内政ばかりをしています。
でも、適度に手を抜かないと、こういうゲームって一日中やってしまうので、気をつけないと。
もっとも、マビノギやパンヤやMFLがしょんぼりすぎるために気分転換している側面が強いんですが。

王政錬金術師、タル鯖ではどうしようもない。
タイトルもろもろには興味ないんだよ。ぶっちゃけそんな厨房要素はいらない。
G11クリアが、シナリオサポ-トの条件になれば、それだけでいい。
世の中には、痛々しいくらい対人交渉が苦手な人もいるんだよ。そういう人たちへの配慮ってのも、必要じゃないのか?
MMOだから交渉できて当たり前ってのは、人類社会に所属している以上ストレス貯めても無理に交友関係広くしろ、といってるのと同義だし。私は暴論だと思う。
ましてゲームである以上は、システム側に人間的な思いやりってのは、予め組み込まれていないと手のつけようがないと思うんだ。
私には到底本質的なところまではわからないけれども、それでも人と付き合うことに対してストレスを溜め込むタイプの人を見ていると、その辛さは間接的に伝わってくる。
厨房に俺プレイさせるのは構わないが、そのためにそういう人たちを犠牲にするなよ。
言い過ぎか? でもそういわれたってかまわない。
私はそういうシャイな友人たちの方が、大事だ。
放置オメ
いや、じつは放置したくてしたわけではないのですが。
再セットアップ以降、ブルースクリーンが頻発し、いろいろと手は尽くしたのですが
ちょっといじるとブラウザがエラーを吐いてこける
資料を調べていると、突然応答しなくなり、回線に異常はないのに一部の通信が止まってしまう
おまけに諸っ中画面が壊れ、一部が見えなくなる
VGAボードは新品、HDDも新品
なのにこの深刻なダメージはどういうことだ
OSいれるのに失敗したのか?
などと試行錯誤しているのもなんだか馬鹿らしくなったので



更新を再開しました



まあ、なんとかなるじゃろう。
なにもおきないこともあるんだし。


私にはいくつか妙な癖があり
そのひとつに「おおきなものをだっこしながら寝る/テレビを観る」というのがあり
これなあ、女の子がやってたらかわいいんだけど、いい年した中年のおっさんがやってるのはなあ
と、自分でも思うのでなおそうとは思うのですが
じつはこれ、深いところのトラウマに根ざしているのでなかなか治りません

学生の頃、といっても高校生ぐらいですが、一番暇を持て余していた頃でもあり、いろんなところに足繁く通っていたおかげでただで映画を観る機会もおおくなり、そのため大学の頃は、彼女の家に泊まると称して、その実劇場に足を運び、オールナイトの映画をだらだらと見ながらその場で寝てしまうとかいう怠惰なことをしておったんですが
一般の劇場では次第にオールナイトがなくなり、ポルノ映画館くらいでしかやらなくなったので、飲み会のあと、バスもないしうちにかえるのがめんどくさかった私は、よくポルノ映画館に行って寝ていたのです。
一般映画館も、当時は座席の入れ替えなどという無粋なものはなく、見たければ延々何回も同じ映画を見られたので、体力のあった学生時代にはそれでも十分宿泊施設の用をなしていたのです
(するなって話もありますが)
で、そんなある日
ふと目が覚めると、なにやら違和感がある
いつもほとんどお客のいない劇場なのに、人の気配がある
私はおそろしく寝覚めがいいので、即覚醒したわけですが
左右に人がいる
座席ほかにあいてんだから他いけよな、と思っていると、両側から手が伸びてくるのです
太ももの方から
とっさに事態を察した私は、大慌てで座席の背もたれを飛び越えて、そのままハードルのように座席を飛び越え玄関にまっしぐら
それ以来、寝る時と映画を観るときは、なにかをだっこしていないと落ち着かないのです
その後も何度かそういう目に遭いかけましたが


痴漢はいかんよ痴漢は


自宅でDVD鑑賞しかしない今の映画オタにはないとおもいますが
古い人達は多かれ少なかれこういう修羅場をくぐり抜けてきているのです
だから劇場で、でかい荷物をだっこしてみている人がいたら、そっと目頭を抑えてください
きっと私の同類です。


ロリエロなんかを描いてる人で
突然血まみれの女の子を描く人がいる
作風的にものすごく違和感があるのだけれども、私はこの気持がなんとなくわかる
美的感覚で、少女は血まみれでなければならないのだ

少女性というのはいろいろな角度から論じられるけれども
退廃とゴシック、これと親和性が良いのはさまざまなフェティッシュからも、明らかなことだと思う
なぜこうしたものとの親和性が高いのか、という話になると、その要因の一つとして、大人になることへの拒絶、ということがあるように思う
ゴシックにしろ退廃にしろ、そこには明確に非生産性が打ち出されている。女性というのは、シンボリックに生産の象徴だけれども、それを一切拒絶していることになる。
以前ローゼンメイデンネタで書こうとしてやめたのは、このことなのだけれども(あらゆる角度から見て誤解を受けそうだったので)
ようするに彼女たちは、人形である前に少女であり、少女であり続けるためには、彼女たちは永遠に不妊でなければならない
仮に性行為が許されたとしても、そこには一切の生産性はなく、あるのは消費と運動と快楽のみになる。
だからこそ、彼女たちはゴシックなのだろうけれども、ただひとり真紅のみは女として目覚めてしまったような描写があるので、アリスゲームというのは、少女性を捨てて女になるという、皮肉な二律背反があるのかもしれないけれども、そんな作者の、あるいは鑑賞者の意図はおいといて、彼女たちは戦い続けることになる。
戦い、人を傷つけていくのは、生産力を奪われた少女に許される、あるいは唯一の生産的行為なのかもしれない。
結果的に、ゴシックで、耽美で、退廃で、ロリータであるということは、その行動を破滅的な方向に向けてしまうという必然があるのかもしれない。
拒絶するということは、彼女たちに許される、おそらくは唯一の主体的行動表現なのだ。

一方で、少女であり続けることに未練を残しながらも、おとなになることに憧れ、それを自らのカラーにしていくひとつのフェティッシュは、縞パンである。
そのため縞パンの女の子は、おおむね活動的であり、少女と女との間で不安定に揺れ動いているため、ハッピーエンドのエロゲーとの親和性が極めて高い。セックスを通じて、彼女たちは女になってしまうからにほかならない。
人を傷つけ続けることを半ば宿命付けられた存在であるゴシックなロリータとは、対極の位置にいると言っても差し支えないかもしれない。

で、本題はゴシックなロリータの方である。最強の縞パン千歳について語ってもいいが、それは本題ではない。たもりただぢ氏は偉大だ

極端な話になるけれども、そういうわけで「人を殺す少女のフェティッシュ」というものは、実は根強く存在している。べつにエロゲーの話ではない。いつものように、映画の話。

子供の無邪気さと残酷さを描くのに、少女というのはうってつけである、ということも、もちろんある。残酷な少年のモチーフとしては、ドナーの傑作「オーメン」があるけれども、2作目でダミアンは、悪魔の子であることを自覚し、少年であり続けることから決別したために、既に作品の魅力としてはエンディングを迎えていたにもかかわらず、続く3作目で「おっさんになったダミアン」がでたわけで、当初から3部作を意図していた、とは言われるけれども、だとすれば企画者の頭は、作品が受けた理由を理解していないポテチン野郎ということになる。既に完結した作品の続編なぞ、誰が見たがるものか。
続く4作目では、これがディーリアという女の子に変わり、原点回帰をはかって「さあ売るぜ」と腰をすえているのだけれども、残念ながら、修正されまくったポスターほどには、ディーリア役のエイジア・ヴィーイラが全然可愛くない。致命的だ。彼女のキャリアがここで終わっているのも頷ける。
一方で、今でも「ダミアン」と呼ばれ続けるサム・ニールは、なんだかんだで他のダミアンとは一線を画し、未だにダミアンと呼ばれ続けている。そこには「こんなダミアンは見たくなかった」というがっかり感と、そんな残念な映画の中で光った、演技派としてのニールが、印象的だったせいだろう。後に彼は、アンジェイ・ズラウスキーの「ポゼッション」で、年齢不詳の美人、イザベル・アジャーニ扮する嫁さんを、たこに寝取られる夫を熱演している。こんな役を大真面目にやれるのは、このふたりだけだろう。
オーメン4も、サム・ニール並みの演技者が、せめて父親役で出ていれば変わったかもしれない。まあTVMじゃ仕方ないよなあ。

少女による殺人、というセンセーショナルな題材でも、「オーメン4」がこけたように、ヒットさせるのは極めて難しい。逆にいうと、ここにあるのは「少女が人を殺すところが見たい」というフェティッシュ一発ネタなのだから、主演の少女が良ければなんとかなる、という題材であるとも言える。

もっとも、「オーメン」は、ダミアンなり、ディーリアなりが直接手を下すわけではない。ハリウッドがカニバルという題材を取り込むためにゾンビを生み出したように、悪魔の子というモチーフで、すべてを正当化した側面もあるから、いささかマイルドすぎる、という見方もあるかもしれない。
では、少女がバンバン人を殺せば大受け、かというと、世間もそう甘くはない。

ジャック・ヒルの「スパイダー・ベイビー」は、血の汚れた一族による殺人という、ホラーにありがちな設定だけれども、ブラックユーモアの映画だ。
ヒロインのひとりであるジルは、愛らしく、こまっしゃくれていて、少女の魅力を十二分に引き出している。
が、真性のきちがいかとおもわせる迫真の演技で、普通の男性はドン引きだ。私はめろめろだが、やはりここまでいくと、一般には受け入れがたいもののように思われる。そういえば、絵にしろ「目がいっちゃってる程いかれている」というのは少ない。ゴシックでロリータである条件として、理性を保ちながら

静かに病んでいる

この静謐さが必要なのかもしれない。
少女というにはすごく無理がある気がするけれども、クリント・イーストウッドの愛人ソンドラ・ロック(いつもサンドラ・ブロックと間違う)の「メイク・アップ」なんかは、全然静かじゃない。まあ人殺しというのとは違うのだけれども、このタイプのストーリーは、なぜか女性のエロ漫画家が頻繁に取り上げる。純真な女の子だと思っていたのに、やった翌日から男を家畜化してしまう、というストーリー。何故か女の子は二人組のことが多いので、案外この映画がなんらかの形で影を落としているのかもしれないが、女性が描く、ということには、雌であることを偽装して、少女として男に近づいていくという部分の、自発的ななにかを表現しているのかもしれない。いや、ほんとに書き手が女だと、一本はあるんだよこの話。(そしてだいたい、抜けない程度に痛い話になっている)

いくらうまくても、ソンドラ・ロックでは少女というには無理がありすぎるらしい(笑)
では少女らしい少女で、実際に手を下したやつはいないか、というと、もちろんいくつかある。

ジョエル・セリアの「小さな悪の華」というのがそれで、タイトルからもわかるとおり、ボードレールの悪の華にはまった小娘たちが、小さな悪に手を染めるところから始まり、次第にエスカレートしていく話だ。この映画もペアなのだけれども、女が何故か連れションすることと、心理的な関連があるのかもしれない。
実際には、そう、実際には。この映画はよくあるフカシではなく、実話に基づいている。実際の彼女たちはレズビアンで、そのことから、二人を引き離そうとしていた大人たちの中から、自分の母親を標的に選び、殺害してしまう。「小さな悪の華」に描かれているような他愛のないものではなく、少女というカラに閉じこもったまま、空想の世界で生きてきた彼女たちの感情のはけ口が、殺人という形をとってしまったという事件だ。
他愛もないっつったって、人殺してるわけだが。どこまでも遊びの延長の殺人と、被害妄想から現実と空想との境界が消失してしまった本件とは、キ印度が違うように思う。
男であれ女であれ、オタにとっては耳の痛い話ではある。
事件はニュージーランドで起こるのだが、同地が産んだ鬼才ピーター・ジャクソンによって、二人の物語は「乙女の祈り 」として映画化される。この映画を切っ掛けとして、人気ミステリー作家アン・ベリーが、空想好きで小説家志望だった少女ジュリエット本人であったという、嘘のような事実が明るみに出てしまうのだけれども、興味のある方はアン・ベリーでwikiあたりを調べてみて欲しい。下手に別窓をひらくと、落ちるので裏はとってないけれども、たぶん項目はあるはずです(笑)

少女による殺人というモチーフは、閉鎖性と空想、そして攻撃的な被害者意識という、誰もが女に対していだいているネガティブな側面を、哀しく描いているものなのかもしれない、というひとつの仮定に行き着くことになる。もっとも、大部分は単なる興味本位なのだけれども。

つづく。


というわけで、乙女の祈り。

いわゆる実話ものスキーだったり、フェティッシュなものを求めていない人でも、内気であり、自己表現が下手で、人に愛されることに強い欲求を感じている、ようするにオタ傾向の強いひとは、あくまでも少女の視点から描かれる「彼女たちの世界観」に、強く共感を覚えるのではないかと思う。同性愛傾向の強いひとは、なおさらだ。
同性愛の物語が破滅的になるのは、その結果が本人にせよ周囲にせよ、ある程度予想出来ているためで、ふたなりフェティッシュというのは、そこから肯定的に生み出されたハッピーエンドの一つの形なのかもしれない。
さすがに後の大監督となるジャクソンの腕の冴えは、彼女たちの切ない結びつきを描くことに成功している。別に傑作というほどの作品でもないけれども、人に裏切られた、友達が欲しい、せつない、そんな時に見れば、一気にのめりこんでしまえるような作品だとは、言ってもいいかもしれない。ニュージーランドの美しい風景とも相まって、二人の空想の世界が、なんとなく物悲しい。


トレーラー

SFXにもこういう使い方があるんだよなあと、変なところに感心させられる。別にファンタジーやSFじゃなくてもいいんだよね(笑)



読み返して気づいた。
ソンドラ・ロックは、クリントの「元」愛人ですね。謹んでお詫び申し上げます。
誰もそんなこときにしねえって!